Fake Nostalgia
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Fake Nostalgia
2025/12/13制作の作品
「Fake Nostalgia」は、デジタルカメラで撮影された映像を過去風に変換する装置——ではない。この作品の本質は、より狡猾で、より批評的である。カメラが起動している間、システムは自動的に複数の静止画を取得し続ける。そして鑑賞者がシャッターボタンを押した瞬間、記録されるのは「その瞬間」ではなく、既に過ぎ去った複数の瞬間の中からランダムに選択された一枚なのだ。
これは写真における根源的な問題——「決定的瞬間」の不可能性——を、意図的に、かつ残酷に実装している。鑑賞者は「今だ!」と思ってシャッターを切る。しかし記録されるのは、その意図とは無関係な、過去のどこかの瞬間である。デジタル技術が可能にした完璧な同期性の幻想を、この作品は容赦なく裏切る。
アンリ・カルティエ=ブレッソンが語った「決定的瞬間(le moment décisif)」とは、撮影者の意図と世界の状態が完璧に一致する奇跡的な瞬間を指す。しかし「Fake Nostalgia」が提示するのは、その対極である。ここでは、撮影者の意図は必然的に裏切られる。シャッターを切る行為は、もはや瞬間を「選択」する行為ではなく、システムによる「ランダムな選択」を承認する行為に過ぎない。
この仕様は、単なる技術的トリックではなく、深い批評性を持つ。なぜなら、それは記憶と歴史における「選択」の問題を暴露するからだ。私たちが「過去」として記憶するものは、実際に起きた無数の瞬間の中から、何らかの基準で選択されたものに過ぎない。そしてその選択は、しばしば恣意的であり、権力的であり、イデオロギー的である。
さらに批評的なのは、その選択が「ランダム」であるという点だ。ランダムネスは、一見すると中立的で公平な選択方法に見える。しかし実際には、それは最も暴力的な選択方法の一つである。なぜなら、それは一切の意味や意図を剥奪し、出来事を純粋な偶然へと還元するからだ。
鑑賞者は自分の表情や姿勢をコントロールしようとする。「良い瞬間」を捉えようとシャッターを切る。しかしシステムは、その努力を無意味化する。選ばれるのは、意図しない表情、準備していない姿勢、「今ではない」瞬間である。この経験は、現代社会における個人のコントロール喪失を象徴的に体験させる。
そして皮肉なのは、この「コントロール不可能な選択」が、極めて精密な技術的シミュレーションによって包装されている点だ。ISO感度、露光量、現像液の温度、H&D特性曲線——これらのパラメータは、アナログ写真における撮影者のコントロールを象徴するものだった。暗室での微調整によって、写真家は自分の意図を画像に刻み込むことができた。
しかし「Fake Nostalgia」において、これらのパラメータは空虚な記号と化している。どれほど精密に調整しようとも、「どの瞬間が記録されるか」という最も根本的な部分は、既にシステムによって決定されている。技術的コントロールの豊富さは、根源的なコントロール喪失を覆い隠すための装飾に過ぎない。
この時間的操作は、視覚だけでなく聴覚にも及ぶ。画像から抽出されたデータをもとに生成される70年代風の音楽(Gマイナー、71BPM、ドリアンモード、「wistful-longing」)は、鑑賞者が選択しなかった瞬間に、感情的重みを与える。ランダムに選ばれた瞬間が、音楽によって「意味ある記憶」へと変換される。
ここには二重の操作がある。第一に、どの瞬間を記録するかの選択権を奪う。第二に、その奪われた瞬間に、アルゴリズムによって生成された感情を付与する。鑑賞者は、自分が選んでいない瞬間に対して、システムが設計した通りの感情を抱くよう誘導される。
この構造は、ポピュリズムにおける歴史操作のメカニズムと酷似している。政治的ノスタルジアは、過去の無数の瞬間の中から、特定の瞬間を恣意的に「選択」し、それを「偉大だった時代」として提示する。その選択がなぜその瞬間なのかは、説明されない。ただ、選ばれた瞬間が「良かった時代」として流通する。
"Make America Great Again"が指し示す「Great」な時代がいつなのかは、曖昧である。1950年代かもしれないし、80年代かもしれない。重要なのは、具体的な歴史的事実ではなく、「良かった」という感情である。そして「Fake Nostalgia」が示すように、その感情は、選択された瞬間に後付けで与えられたものに過ぎない。
実際の歴史は連続的で複雑で矛盾に満ちている。しかしポピュリズムは、その連続性から特定の瞬間を抽出し、文脈を剥奪し、感情を付与する。ちょうどこの作品が、連続的な映像ストリームから一瞬をランダムに抽出し、フィルムグレインと70年代サウンドで包装するように。
この作品が優れているのは、通常は不可視化されている「選択」のプロセスを、明示的に提示している点だ。多くのソーシャルメディアプラットフォームやニュースアルゴリズムは、何を見せるか、何を記憶させるかを選択している。しかしその選択プロセスは、ユーザーには見えない。
「Fake Nostalgia」は、その選択が「ランダム」であることを隠さない。むしろ、ユーザーの意図に反してランダムに選択されることを、作品の仕様として提示する。この自己批評的な姿勢が、作品を単なる技術的実験から、批評的実践へと高めている。
鑑賞者は経験する——自分が選ぼうとした瞬間と、実際に選ばれた瞬間の乖離を。そしてその乖離に、後付けで感情が付与されることを。この経験は、私たちの記憶や歴史認識が、いかに「選択」と「感情付与」によって構築されているかを、身体的に理解させる。
最終的に「Fake Nostalgia」は、時間と記憶をめぐる政治学を、インタラクティブな装置として実装した作品である。それは、ノスタルジアが「自然な感情」ではなく、技術的に製造可能であることを示す。それは、過去の「選択」が権力の行使であることを暴露する。そして何より、その選択から排除された無数の瞬間の存在を、ネガティブな形で示唆する。
記録された一枚の背後には、記録されなかった無数の瞬間がある。語られる歴史の背後には、語られなかった無数の歴史がある。「Fake Nostalgia」は、その構造的暴力を、ブラウザという最も日常的なメディアを通じて体験させる。
これは単なる美的実験ではない。デジタル時代における記憶、歴史、アイデンティティの構築メカニズムに対する、鋭利で、詩的で、容赦ない批評なのである。そしてその批評は、「偽のノスタルジア」というタイトルが示す通り、自らの詐術を隠蔽せず、むしろそれを武器として使用する——これこそが、批評的芸術実践の最も誠実な形態である。