CITY POPulism
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CITY POPulism
2025/9/27制作の作品
「CITY POPulism」は、1980年代日本のシティポップ文化をデジタルメディウムで再構築したオーディオビジュアル作品であると同時に、現代日本の政治的ポピュリズムに対する批評的考察でもある。タイトルの「POPulism」は、音楽ジャンルとしての「POP」と政治現象としての「Populism」の語呂合わせであり、大衆文化と大衆政治の共振関係を示唆している。
作品の視覚的クライマックスにおける色彩選択—ビビッドなピンクとオレンジのデュオトーン—は、表面的には80年代のネオン美学を参照しているが、同時に現代日本の政治的スペクトラムをも暗示している。ピンクはれいわ新選組のコーポレートカラーを、オレンジは参政党のそれを想起させる。
これらの政党は、既存の政治的枠組みへの不満を背景に台頭した「反システム」的な性格を共有している。れいわ新選組の左派ポピュリズムと参政党の右派ポピュリズムという対照的なイデオロギーを、作品は色彩の対比として視覚化している。重要なのは、この対比が画面上で「融合」し、統一された美的体験を生み出している点である。
1980年代のシティポップは、表面的には政治性を排除した「洗練された都市生活」の音楽として位置づけられてきた。しかし、この作品はシティポップの政治的無意識—バブル経済期の楽観主義、消費主義、西洋文化への憧憬—を現代の文脈で再考察している。
当時の「政治的でない」文化もまた、実は高度に政治的だったのではないか。グローバル資本主義への無批判な受容、個人的快楽の追求、社会問題からの意図的な目逸らし—これらはネオリベラリズムのイデオロギー的基盤そのものだった。
現代のポピュリズムもまた、複雑な政治的現実を「美的体験」に還元する傾向がある。SNSでの情報拡散、感情的な動員、視覚的インパクトを重視したプロパガンダ—これらはすべて「美学化された政治」の症候である。
本作品のリアルタイムビジュアルシステムは、この現象を批評的に反映している。楽曲の感情的高揚に完全に同期したビジュアルの変化は、政治的メッセージが感情的反応を誘発するメカニズムを模倣している。観者は理性的判断ではなく、感覚的没入によって作品を体験する。
作品の技術的側面—デバイスパフォーマンスの常時監視とリアルタイム調整—は、現代の監視資本主義社会のメタファーとしても機能している。システムは観者のデバイス性能を監視し、最適化された体験を提供するが、同時にその監視プロセス自体をコンソールログとして可視化している。
これは、ポピュリスト政治家が有権者の「パフォーマンス」(支持率、エンゲージメント)を常時監視し、メッセージを最適化するプロセスと相似している。透明性の演出(ログの公開)と実際の制御(アルゴリズムによる自動調整)の矛盾が、現代民主主義の根本的ジレンマを浮き彫りにする。
「CITY POPulism」が提起する核心的問題は、ノスタルジアが政治的動員の道具として機能するメカニズムである。シティポップへの現代的関心は、単なる音楽的嗜好ではなく、「失われた良き時代」への憧憬として解釈できる。
しかし、作品はこのノスタルジアを脱構築している。80年代の「美しい記憶」を現代の技術で再現する過程で、その記憶自体が既に技術的に媒介されたものであることを暴露する。過去への郷愁は、現在の技術的条件によって構成された幻想にすぎない。
ウェブブラウザという日常的プラットフォーム上で展開される本作品は、政治的メッセージの流通経路としてのインターネットの問題性をも扱っている。作品へのアクセスは「偶然の出会い」を装っているが、実際にはアルゴリズムによって調整された体験である。
これは、SNSでの政治的情報流通—アルゴリズムによってフィルタリングされた「自然な」出会いの演出—と構造的に同一である。観者は自由意志で作品を体験していると感じるが、その体験は予めプログラムされた反応の範囲内に収束していく。
「CITY POPulism」は、ポピュリズムの美学的次元を露呈させる批評的装置である。それは政治的立場の表明ではなく、政治が美学化され、美学が政治化される現代的条件への問いかけなのである。ピンクとオレンジの融合は、対立するイデオロギーが同一の感覚的基盤(ノスタルジア、美的快楽、技術的驚異)を共有していることを示している。
真の批評的課題は、この共有された感覚的基盤自体を問題化することにある。